今治城について
今治城は町中にあります。
四方を堀に囲まれていますが、堀の水は海から引いています。
この種のお城は珍しく、香川県の高松城、大分県の中津城と共に
日本の三大海城とされています。
堀の外側は道路で、その道路沿いに色々な店や住宅などが並んでいます。
堀の一辺は目測で4~500メートルで、そんなに大きな城跡ではありません。
元々は広大なお城でしたが、明治以降縮小したようです。
この今治城を築城したのは藤堂高虎という武将で、
1602年に着工し、1604年に完成しています。
それ以前は、山あいに中世の城があったのですが、
高虎が一挙に領民の近くに城を持って来たという形です。
お城は、殿様が住んでいるばかりでなく、侍が政務を執り行う所です。
例えていえばオフィスビルですが、それが天守閣。
高虎は立派な天守閣をつくったようですが、移封になった時、
解体してどこか別のお城に移し替えたと聞きます。徳川家康への贈り物とか。
残念なことに高虎がつくった天守閣の資料が現存していないとかで、
現在の天守閣は模擬天守閣とのことです。
また、お城の中には吹揚神社という神社があります。
鳥居の連なるところがあり、京都を連想させます。
別のところに高虎が馬に乗った銅像があり、ともにいい写真の被写体になります。
藤堂高虎という人物
藤堂高虎は、近江(現在の滋賀県)の没落小領主の次男にうまれ、
始めのころは浅井長政に足軽として仕えました。
そのころから武勇に優れていましたが、浅井長政は信長に滅ぼされます。
その後、旧臣たちに仕えましたが、どれも長続きせず、次々に主君を変えました。
高虎がチャンスを得たのは、豊臣秀吉の実弟、秀長に仕えてからです。
次々に武功をあげ、トントン拍子に出世をしていきます。
武功ばかりでなく、城などの建築にも才をみせ、
そのため秀長ばかりでなく秀吉や徳川家康にも覚えよろしかったようです。
秀長が死んだ後も、秀吉に見込まれ、
1595年に伊予国板島(現宇和島)7万石の領主となります。
この時、戦乱で疲弊した領土領民をみて、復興に文治の大切さを知ったようです。
秀吉は1958年に死にますが、その後高虎は徳川家康の近づきます。
関ヶ原の戦いでは家康側です。その功で今治12万石を加増され、
今治城の建築を始めたのです。海城にして、領民に近く。
高虎自身は1608年に伊勢国津藩に移封となりますが、
今治の2万石は飛び地として領有し、養子が今治藩主となります。
1635年に久松松平氏がそれぞれ松山藩と今治藩の藩主となって、
藤堂氏の今治領有は終わります。
藤堂高虎は津藩主として、外様の中の大大名、譜代のような扱いだったと聞きます。
高虎が死ぬとき、子孫に遺訓したとか。
その甲斐あってか、子孫は綿々と続き、
明治維新の大波を乗り切り、伯爵や子爵になったとか。
高虎は足軽から大藩の藩主になった男です。
主君を何人も変えていますが、最終的には徳川幕府で重用されています。
忠義一徹であっけなく死んでしまうよりは遥かにいい人生ではないでしょうか。
もしかしたらこれも戦国時代からの生き方の一つでは。
そして高虎が生き残ったのは、私見ですが、
武勇、築城の他に大局を見る目が優れていたのではないでしょうか。